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2006年5月23日 (火)

オタク・イズ・デッド

 明日の夜、新宿のロフトプラスワンで、ワンマントークショー「オタク・イズ・デッド」をやります。

 オタク・イズ・デッド。
 そう、オタクとはすでに滅びてしまった民族なのです。

 オタクが滅びたとするなら、では、いま存在する「私たち」とは何ものなのでしょう。
 マニアなのか?「萌え人」なのか?それとも???
 オタクはいかに生まれ、栄え、そして滅びていったのか?

 できるだけ噛み砕いて簡明な説明を目指しつつ、「オタク世代論」や「なぜ女子オタクは隠れるのか?」なども盛り込むつもりです。

 滅びゆくオタクと、それを見守るしかできない私たち。
 今の我々は、「アトランティス大陸が沈むのを、脱出船から見ている避難民たち」ではないでしょうか?

 現状を説明するカードは全部揃いました。
 明日の夜、すべてを開示し説明しましょう。

 オタク・イズ・デッド。

 

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京都でトークショーします

 6月8日(木)に京都でこんなイベントやります。
 以前に新宿ロフトでやって好評だった「プチクリ入門」と、コンセプトは同じだけど内容を「特盛り」にしたようなイベントにする予定。
 スタッフ一同、今回の目標は「過剰なまでのクオリティ」です。
 絶対に面白いトークショーにしますので、お近くの人はぜひどうぞ。

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2006年5月22日 (月)

デジカメ写真のサイト

 このサイトでデジカメ日記をやってます。
 よろしければ、のぞいてください。

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2006年5月16日 (火)

デスノート最終回・鎮魂歌

デスノート最終回

 連載108回で終わりかぁ。
 かなり前から最終回までのカウントダウン、してたんだろうなぁ。
 最終10話ぐらいは完全にラストシーンに向けてコンテ切っていたし。
 デスノート、僕はものすごく好きな作品だ。
 第一回から最終回まで、奇跡のように素晴らしい。
 これより先、ネタバレを含むので読む人は注意を。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 印象に残ったのは最終回の一話前。月とリュークの会話回想シーンだ。
 リュークは「デスノートを使った人間が天国や地獄に行けると思うな」と言う。まだ高校生の月は「わかった。つまり天国や地獄なんか存在しないんだ」と返す。
 このシーン、かなり感動した。
 「新世界の神になる」と決意した高校時代の月。それはけっして「誰にも捕まらない世界最高の権力者になりたい」という意味ではなかったはずだ。
 天国や地獄など存在しない世界。つまり正義や「悪への報い」などない、この私たちの住む世界にひとつのルールを作ろうとした。
 悪には報いを。
 正しい人が泣き寝入りしないで住む世界。
 月が目指したのは、たったそれだけだった。
 
 しかし、Lの登場で月は変質する。
 Lを出し抜きたい。
 自分に逆らう人間に天罰をくらわせたい。
 そんなことばかり考えているうちに、月は月でなくなってしまった。
 ラスト一話前でリュークに「死にたくない」「なくなるのはイヤだ」と訴える月は、リュークから見てももう「面白くもない」存在になりさがってしまった。
 デスノートという絶対的な力を手に入れた月は、その力を失うことを恐れ、自分の背後に忍び寄る影に怯えて、どんどんダメな奴になる。
 孤高を恐れなかった魂は、心を許せる友や家族が一人もいない、という孤独に成り下がり。
 天国や地獄を信じない精神力は、自らを神と称する自我肥大にすりかわる。

 つまり。
 「デスノート」のテーマはただひとつ。
 「絶対的な権力は、絶対的に腐敗する」という、ただそれだけのことを描き切った作品なのだ。
 
 最終回、月が死んで一年後。
 松田はまだ割り切れない。
 キラを倒すことは正しかったんだろうか?
 世界はもとの混沌に、キラという裁きの神のいない世界に、つまり「天国や地獄など存在しない世界」に戻ってしまった。
 それは本当にいいことだったんだろうか?
 松田は思い悩み続ける。
 
 なぜか?
 松田は「弱者」だからだ。
 Lは強い。
 Lの部下も、捜査本部の人間たちも強い。
 キラなどいなくても、きっと生きていける人たちだろう。
 しかし、松田は違う。
 平凡な、どこにでもいる人間だ。
 
 強い人間たちは、現実をはっきり見据える。
 この世界には天国や地獄はない。
 奇跡も神も、そして悪への裁きも存在しない。
 だからLたちは、今日も現実の犯罪を追いかける。
 「悪人を裁く」のではなく「犯罪を食い止める」「すでに起こった犯罪の犯人を逮捕する」。
 Lたちができるのは、たったそれだけのことだ。
 絶望しない。夢なんか見ない。
 Lは、Lのような人たちは強いから、そんな世界でも生きていける。
 彼らにとってキラとは「独裁者」以外のなにものでもない。
 自分だけを信じて生きていける人間にとっては、たしかにキラなど必要ではないだろう。
 彼らは「自分」を信じればいいのだから。
 
 しかし、この世界のほとんどは松田と同じ「弱い人間」だ。
 天国を地獄を、つまり神を希求する。
 占いを、オーラを、前世を信じたくなる。
 誰か強くて賢い人間がすべてを決めてくれるなら、それに従いたくなる。
 
 キラはそんな「弱者たちの希望の星」だ。
 だから、私たち読者はけっして月を否定しきれなかった。
 悪人を裁き、デスノートをけっして自分の快楽には使わない月に、「殺人者」と知りながら声援を送った。
 
 「デスノート」という物語は、夜神月の敗北という終わりを迎えた。
 しかし、月がしたことは、果たして何もかもが間違っていたのだろうか。
 月が敗北したのは、彼が堕落したからだろう。
 だからといって、キラの行為すべてが間違っていたと言い切れるのだろうか。
 作者は「堕落した夜神月」は断罪するが、「正義の殺人者・キラ」を否定していないのではないだろうか。  
 
 「デスノート」は少年マンガの枠の中で表現を選んでいる。
 だから最終的に「キラは正しかった」とは言えない。
 「そう言えるかもしれないけど、わからない」というのが限度だ。
 
 最終回のラストシーン、世界の果ての山頂に集まる人たち。
 彼らはキラに感謝している人たちなんだろう。
 大切な人を失い、復讐することも出来ず警察も助けてくれなかった人たち。
 Lの世界、「天国も地獄もない世界」にはけっして住めない人たち。
 月によって無念を晴らしてもらった人たち。
 キラの世界でだけ、平和に生きられた人たち。
 
 世界の果ての山頂で、誰にも知られず、夜神月は弱者たちに感謝される。
 正しく強いLは「独裁者=太陽のような世界の中心」を認めない。
 しかし弱きもの、この世の地を這うものたちは、暗黒の夜の世界をかすかに照らしてくれる月を忘れはしない。
 
 夜神月よ、安らかに眠りたまえ。
 お前は最後まで誰も信じられず、ひとりぼっちで死んだのだろう。
 神も悪魔も、天国も地獄だってありはしない。
 だからお前はもう、どこにもいない。
 ただ、死んで消えただけだ。
 
 でもお前の死を悼み、お前に感謝し、祈るものだってこんなにいるんだぞ。
 だから、せめて、安らかに眠りたまえ。
 

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2006年5月 3日 (水)

清き一票を!

毎日放送の「月極ラジオ」
http://mbs1179.com/info/tsukigime.html

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「イノセンス」私的解読

 イノセンスという作品は、「バトーを主役にした寅さん映画」と捉えると理解しやすい。

 前作の攻殻機動隊は、草薙素子という女性をめぐる三角関係の映画だった。
 肉体をほぼ失った女性・素子と、同じく肉体をほぼ失った男性・バトー。そして最初から肉体を持たない人工知性・人形使い。
 素子は自分の正体やアイデンティティのありどころに悩み、バトーはそんな素子に「俺たちは理解し合えるんだ」と寄り添おうとする。
 しかし素子が最終的に選んだのは「新しい世界に連れて行ってあげる」と手を差し伸べた人形使い。
 バトーにとって、映画版第一作は「一生懸命尽くしたのに振られたお話」だった。
 
 つまり「義体はつらいよ 寅次郎さすらい編」ですな。

「お~れがお前で お前が俺で~
 サイバー世界は自我不安~」

 素子ぉ、ハッキングには気ぃつけろよ。
 お前が電脳の世界にヨメに行ってからも、あんちゃんは公安9課で頑張ってるから心配するなぁ。


 そして今回の「イノセンス」。
 テーマはもちろん「バトー君のメソメソ日記」。
 肉体がマッチョかつサイボーグ、おまけにセリフがぶっきらぼうでケレンみたっぷりなので、バトー君のメソメソっぷりに気づかない人も多い。
 映画の手法がハードボイルドというかフィルム・ノワール。だから主人公は「運命的な悪女=ファム・ファタール」に徹底的に振り回される。
 出会うすべての義体や人形に自分がかつて惚れた女の影を見る、というありさま。
 最後の最後に素子が現れたときは、もうバトー君たら尻尾全開で喜んでる。
 でも素子は「あなたが見てるのは、しょせん私の一部なんだけどね」(意訳)とか抜かしてすましてやがる。性根がドMのバトー君、こういう扱いされるのがたまんないんだろうなぁ。
 
 事件後、性悪女は「でもいつも近くにいるのよ。おバカさんは気づかないだろうけど」(意訳)とか抜かして消える。残った義体だけ見て、またバトー君ハアハア
 ラストでは相棒の娘が抱きしめるお人形を見て「ひょっとしてあの中に素子が・・・ハアハア」とか考える始末だ。
 ちなみに、この映画に限らず、押井アニメの主人公はみんな、他人を言い負かすとか手玉に取ることばかりを考えている。押井監督、素晴らしいドSっぷりですよ!
 冨野監督の「ドM映画」とは対照的だよな。
 
 と、このように「ドMのマッチョが性悪女に振り回される映画」と考えると、「イノセンス」は難解でもなんでもない。
 それでも難解だ、と誤解される理由は、「まさかサイバー未来を扱ったアニメで、こんなメソメソした話をやるとは誰も思っていない」ということと、「監督の性癖(ドS)と思想を混同している人が多い」からだと思う。
 押井監督というのは、理性以上の「情念」でちゃんと映画を作れる人なんだよね。照れ屋というか独特の韜晦な発言でわかりにくいけど。
 ほら、全共闘世代だから。

 ・・・と、こういう話を考えて公開収録に臨んだんだけど、とてもこんだけ語れる時間なかったんだよね。
 なので、サワリだけ発言してきました。
 どれだけ残るかは明日のオンエアをお楽しみに。

 でも質疑応答時のIG石川社長が
「IGはね、押井監督と映画を作り続けて、それでもつぶれなかった会社なんです!」と誇らしげに語ったのはよかったなぁ。
 なんて素敵なドMカミングアウトなんだろう!
 押井監督とは理想のコンビネーションですよ、マジで。

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