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2006年10月28日 (土)

同人誌通販について

 「月刊岡田斗司夫」の既刊、ながらくの品切れ状態からようやっと回復しました。
 http://bestseller.shop-pro.jp/

 ここで同人誌を通販してもらってもう二ヶ月。あいかわらず一番の売れ筋は「オタク・イズ・デッド」だけど、あんがい「月刊岡田斗司夫」も善戦しています。
 

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2006年10月27日 (金)

落語家デビューします

 え~、このたび、岡田斗司夫はプチ落語家としてデビューすることを決意しました。
 芸名は「吉祥亭満月」。
 プチ落語家ですからもちろん師匠もいなければ門下生でもございません。
 落語と言っても、いつもロフトプラスワンでやってるようなオタクっぽい世間話を下世話に語るだけです。
 
 デビューは11月21日(火)です。
 デビューといいましても、三遊亭白鳥師匠独演会の前座としてです。
 演題の「息子はつらいよ ゲド戦記の巻」は、以前にロフトで語ったのや、この夏の同人誌に書いたのと同じ内容です。口調もおんなじだから、衣装や小道具が落語っぽくなっただけ(笑)。
 ただし、前座といっても30分も時間をいただいたので、ちょっとぐらいは膨らませることができると思います。
 
 このデビュー戦では、いままでの岡田斗司夫ファンとはちがう、純粋な落語ファン相手というアウェイでのおしゃべりになります。
 普段なら「満場のオタク諸君、ようこそ」とかカマすんですけど、今回はそれができないので、正直まー怖い怖い(笑)。脚が震えています。マジで。
 
 あ、いちおう紋付は作りました。
 黒羽二重でオリジナルの「月に宇宙船」の紋をつけて。
 でも、しょせんは「プチ落語家」なんです。演目もみなさんご存知の「がんばれ宮崎吾郎」だし。
 なので、「初舞台、ぜひ見にきてください!」と言いたい所ですが、たぶん次回以降の公演で来ていただいたほうが新しい面白さをお見せできると思います。
 
 とはいいながら、いちおうの告知だけさせていただきます。
 
 
 

J-POP恋寄席・三遊亭白鳥独演会
日時:2006年11月21日
   17時開場
   19時開演
※カフェ部分は17時~24時オープンしておりますので、開演前、終演後にゴハンも食べられます。

会場:J-POPカフェ渋谷 ”GARDEN”
渋谷区宇田川町31-2渋谷ビーム7階

http://www.j-popcafe.com 

出演:
● 三遊亭白鳥・・・”火焔太鼓”、”死神J-POPカフェ・スペシャル”
● 吉祥亭満月・・・”息子はつらいよ ゲド戦記の巻”
● 白鳥×満月・・・”対談 題未定”

値段:2500円 全席指定
ご予約はJ-POPカフェ渋谷(03-5456-5767)まで。

 では、これからは岡田斗司夫だけでなく、吉祥亭満月もよろしく御贔屓お願いします。

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2006年10月25日 (水)

たぶん復活

 ようやっとウツが明けた様子。
 いや~、今回のはキツかったなぁ。
 
 過去の日記やメモを見ると、どうやら10月頭からウツに入っていたらしい。
 2日の「プチクリ学園」収録と、3日のアニメ夜話本取材の時、やたら落ち込んでいたのはそれが原因だったか。
 事務所のガス床暖房の電子部品が故障しただけで、あんなに落ち込むのもいま考えればあきらかにおかしい。そうか、あの頃からウツだったのか。
 
 11日に外務省官僚に「アニメ・マンガを外交国策でいかに使うか」という説明したんだけど、たぶんこのときに最後の気力を振り絞っちゃったんだろうな。説明相手の偉いさんの聞き方や態度がやたら気にくわなかったのも、おそらくウツ期特有の感受性過多だったんだろう。
 
 13日に大学講義、16日にガンダム講談、20日にまた大学講義と10日間で3回も大阪とを往復した。
 これも30代なら別になんということもないだろうけど、48歳でこのスケジュールはキツい。ダイエットで炭水化物やカロリー全体を制限してるからなおさらだったみたいだ。
 
 たぶん18日のアスキー打合せとSPA取材が最悪の時期であり、同時に「底を打った瞬間」だと思う。この夜は自動車の気配がするだけで道が歩けなくなったり、駐輪場で自分の自転車が見つからないと30分以上も立ちすくんで動けなくなっていた。
 この日からしばらく仕事や約束をキャンセルしたのは正解。
 なんとか義務感で20日の大学講義をこなしたけど、この日の夜はミーティングが新幹線の遅れで一件流れて、「せっかく大阪来たのに」と軽く落ち込んだだけですんだのは、すでに回復期にあったからだろう。
 「せっかく」もなにも、毎週講義で行ってるのに(笑)。いや、ウツというのはそういう思考法になっちゃうんだよね。
 
 今日は午後から東大駒場で宮沢章夫さんの講義にゲスト出演。まだあんまりエンジンかかってないので、ま、話してみる程度だろうね。
 
 なんとか日記も再スタートできたみたいなので、今日からまたよろしく。
 

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2006年10月 8日 (日)

今夜23時にジャコピニ流星群

今夜23時ごろ、ジャコピニ流星群が見れるかも。
方角は北の空・北斗七星の上辺り。
嵐の後なので観測条件はいいけど、どうでしょね。

アストロ球団とは関係ありません。

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2006年10月 6日 (金)

「マンガ夜話」について

 マンガ夜話がないと寂しい。
 最後のオンエアからもう1年半も経ってしまった。
 いしかわさんは歩いて5分のご近所で、よく吉祥寺でもばったり会う。夏目さんも大月さんも仕事やイベントで時々会う。笹峰あいちゃんだってmixiにいるし、それどころかスタッフやディレクターでもmixiで日記読んだり近況を教えあったりしている人もいる。
 
 でも、あの番組がないと僕は寂しい。
 僕はマンガ夜話が好きだ。
 本番の数週間前にマンガ全巻ぞろいが届けられ、「さて、やるぞ!」という覚悟と新しいマンガに仕事として出会える喜び。
 本番直前の楽屋で、出演者が互いの腹の内を探り合う、あの会話。夏目さんが思わぬところで「あ、それ『夏目の目』で言うから」と言い出し、あわててトークの流れを組み立てなおしたり、大月さんが「ダメだ俺、このマンガ好きになれん!」と叫んだり、いしかわさんが今日の靴下の色を自慢したり、あの楽屋の空気が好きだ。
 
 生放送で、お互いの話が交錯しだして、用意していた持論を展開するのか、その場で思いついた「新しい流れを作る意見」を投入するのか、一瞬で決めなければいけない、あの緊張感が好きだ。
 
 話が佳境に入り、つい熱くなってしまうといつもフロア・ディレクターがカンペで「どのページか具体的に!」という指示を出す。当然、いしかわさんはそんな指示に従ってくれないから、僕はわざと会話をインターセプトして「いしかわさん、それどのへんのページの話ですか?」と割り込む。このタイミングが早すぎたら、いしかわさんの話題を崩してしまうし、遅すぎたら話の流れは他へ移ってしまう。
 
 話題の中心は各メンバー間の間をすばやくトスされて、シュートに入る体制が見えたら他のメンバーは「受け」の体勢に入る。
 そういう生本番特有の、チーム競技をやっているようなスピード感。話をまとめようとするカンペの指示にわざと逆らい、深い話題へと持っていく大月さんの力技。
 視聴者の見ているのは「マンガの話」だけど、僕たちスタッフは「どのように話すか」「どんな雰囲気を作り上げるか」という、もうひとつの課題にも腐心する。
 
 生放送終了後、みんなむさぼるように視聴者からのFAXを読む。
 自分たちの話が伝わっているのか。そのマンガを読みたいと思ってくれたのか。
 「愛がない」と叱られたり、「もっと突っ込んでくれ」と物足りなさを指摘されたり。
 
 テレビというのは数百万人が同時に見るメディアだ。視聴者はひとりひとり違う人間で、だからみんな心に残る箇所が違う。
 僕たちはその最大公約数に向けて番組を作り、同時に自分たちそれぞれが「わかってもらえないかもしれないけど、これだけは言わなければ」という想いもぶつけなければいけない。
 だから毎回ごとに「今回は成功した」「今回は上手くいかなかった」という喜びや反省がある。
 
 あまりにもテレビ的ではない番組「BSマンガ夜話」。
 討論でもなく、仲良し同士の世間話でもなく、たとえて言えば「すっごく面白い大学マンガ研究会で、先輩たちの話を聞いている感じ」を目指していた番組。
 
 いま、マンガ夜話の新シリーズがストップしているのは「NHK側の事情」だそうだ。
 なによりまず、BSの放送チャンネル自体が縮小され、編成からOKがでない、という事情があると聞く。このあたりは出演者や現場スタッフではどうしようもない「上の事情」なので、風向きが変わるのを待つしかないだろう。
 
 アニメ夜話は今期分は消化したので、来期(来年4月以降)にまた新シリーズをすることは、ほぼ決まっているみたいだ。
 でもマンガ夜話は、少なくとも今のところ再開の知らせは来ていない。
 僕は、ずっと待っている。
 いしかわさんや夏目さんや大月さんや、それにあいちゃんだって、きっと待っている。
 大騒ぎしてもしかたないから、「まだかなぁ」と声には出さないように、しずかにみんな待っているんだ。

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2006年10月 4日 (水)

「黒は美しい」 by 千利休

 ひさしぶりに靴下を買った。
 以前にテレビでも何度か話しているが、僕の靴下の買い方は特殊だ。一部では「岡田斗司夫方式」として知られているけど、あんまり女性には評判のいい方式ではない。
 でも、一人暮らししてる男性なら、この方式の魅力がわかってくれると思う。
 
 まず、今までの靴下を捨てる。ハイキングや山登り用の分厚い専用の以外、すべて捨ててしまう。で、いつものとおり、同じ黒の靴下を15足買う。
 僕の場合は24時間営業してる西友の西荻店で、3足セットの靴下を五つ買った。
 なんで同じ靴下を15足も買うかというと、人生で靴下に関してこれ以上の時間を奪われないためだ。
 
 人間、あんがい靴下に時間を奪われている。
 忙しい朝、引き出しから引っ張り出した靴下が左右で柄が違うとか片方のゴムが伸びているとか。そういうつまらないことに時間は使いたくない。
 しかし、靴下をはかないと足がなんか不自然だ。人は誰も石田純一になれるわけではない。戦う男には靴下は必要不可欠なのだ。
 でも靴下を干した後に左右でそろえるとか、もうめんどくさい。
 
 しかし、岡田方式なら簡単だ。
 買ってきた15足の靴下をバラして、なんにも考えずタンスに突っ込む。あとは使うときに上から適当に2本取ればよい。全部同じ靴下だから15足、つまり30本の靴下は全部同じものだ。(外側だけにワンポイントとか、無いのを選ぶのは当然)
 だから適当に2本タンスから引っこ抜けば、どの組み合わせではいてもOK。ゴムがゆるんできたり糸が出てきたら、ためらわずその靴下はゴミ箱に。
 洗濯だって、乾燥機から出した靴下をタンスに突っ込むだけ。洗いすぎて穴が開いたら捨てるだけだから、洗濯の順番も気にしない。
 これ、本当に楽だよ。
 
 欠点は、言うまでも無く「年中同じ靴下」ということ。だからオシャレな人にはオススメできない。いしかわじゅんはこの方式を聞いたとき「え?でも服に合わせていろんな色や柄の靴下楽しみたいだろ?」と聞いてきやがった。
 どうせ僕はテメーのようなオシャレさんとは違うよ!
 ズボンだって黒しか持ってない。靴もいろいろあったけど、黒以外は捨ててしまった。
 セシールの通販で黒い下着が簡単に入手できるとわかってから、いまや僕は下着まですべて黒一色だ。
 上に着るアロハやTシャツだけ色がある。
 
 オシャレに自信や興味がない人、この方式は便利だよ。
 仲間にならない?

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2006年10月 3日 (火)

スカウター装備!

 ダイエットをやっている。
 今回はgooダイエットのシステムを使ってるから、たとえば今日がダイエットはじめてちょうど一ヶ月目だとか、すぐにわかる。体重や体脂肪の変化もグラフで表示されるのでわかりやすい。
 
 今のところ、一ヶ月で体重7キロ落ちて、ウエストのサイズがベルトの穴4つ分減少した。
 方法は単純(簡単、ではない)
 一日の摂取カロリーを1500kcalに押さえ、水を2リットル飲み、週に三回以上運動する。
 これだけである。
 以前に管理栄養士から聞いた話だけど、理想のダイエットとは「毎月、体重の2~3%を減らす」ことだそうだ。それ以上の減量は絶対に体に負担がかかってしまう、と言われた。
 ついつい「早く効率的に痩せる」ことばかり考えてしまうけど、我慢して「毎月、体重の2~3%」ぐらいにとどめること。
 僕は最初のひと月で7キロ落としたけど、これはダイエットの初速であって、100キロオーバーのデブチンがダイエットをはじめたら、どんな方法でもこれぐらいは落ちて当たり前。
 おそらく、これから先は毎月2~3キロというペースになるだろう。
 
 
 もちろん、僕のダイエット法に異論を唱える人もいると思う。
 ダイエットにはいろんな方法というか流派みたいなのがある。
 「痩せた自分のイメージを想像するだけ」というイージーなのもあれば、「炭水化物(でんぷん)を一切とらない」という過激なのもある。
 
 どれも一長一短というか、絶対的な正解というのはない。
 倖田來未のダイエット法「夜6時以降は食べない」というのだって、実妹のmisono(元・day after tomorrowのボーカル)が実践したらリバウンド太りしてしまったそうだ。体質がほとんど同じこの二人ですら、ダイエット法まで共通とはいかないわけだ。
 
 なので、僕の今やってる方法だって、僕にしか効かないかも知れない。
 「もっとジムで筋肉をつけろ!」という人もいるだろうし、ドラッグや脂肪吸引など過激な方法を好む人だっている。
 ただ、僕には今のカロリー型が合ってる気がする。理屈っぽい僕には食事のたびに考えたり計算できたりして、遊ぶ要素がいっぱいあるからだ。
 
 一日あたり1500kcalなので、実はわりとムチャもできる。
 たとえば、どうしても近所にあるヴィレッジバンガードダイナーのチーズバーガーが食べたくなったとしても、午後の早いうちに食べて、残り2食を300kcalで抑えればいいだけだ。
 もし誘惑に負けてポテトも食べてしまいコーラもがぶがぶ飲んじゃったら、「二日で合計3000kcalにすればいい」と気持ちをすばやく切り替えること。
 ダイエットで一番いけないのは「ルールを守れなかったダメな俺」と無用な落ち込みや自己否定をしてしまうことだ。ただでさえ糖質が不足気味になるので、気力が落ちやすいんだから、絶対に後悔しないこと。
 「ああ、昼飯に2000kcalも食べちゃったよ。さて、どうやってフォローしようか?」とクイズ感覚で工夫したり知恵を絞るほうが、よっぽど体にも心にもいい。
 
 先日は「精進料理の中華を、それもランチバイキングで食べられる店」というのを見つけたので行ってみた。
 苓々菜館
 あらゆる食材に動物性たんぱく質を使わず、美味しくて、バイキングだから好きなものだけ食べられて、しかも白ご飯のほかに玄米まで用意してくれていた。
 かなりオススメである。
 
 ・・・と、ダイエットにハマってる僕なのである。
 最近は、食べ物を見ると、その横にカロリー値が浮かんで見えるようになった。
 なんだかスカウターを装備したみたいで、愉快なのである。

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ゼノンの第3のパラドクス「飛んでいる矢は止まっている」

 「ベルセルク」の最新刊を買ったよ。
 読んでる間は面白い面白いって楽しいんだけどさ、読み終わってハタと気がついた。
 あれ?マンガの中では一時間ぐらいしか経ってない・・・
 描写が細かくて迫力満点なので、今まで気にならなかった。というか「ストーリー進展が遅いなぁ」程度には感じていたけど。
 
 最初の頃は一巻で数ヶ月とか経ってたはずなのに、そういえばここんところ5巻ぐらい、すっごくお話が進まない。で、ついに最新刊では一時間ぐらいしか時間経過がなくなってしまったよ。
 これはもう、後期ドカベンとかアストロ球団の世界だよなぁ。
 
 このままゼノンのパラドクスなみに、どんどん時間経過ゼロへの漸近線に近づく、というのもオツだけどね。

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2006年10月 1日 (日)

「オトナ帝国の逆襲」について

 映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」がオンエアされた。以下の文章は数年前の公開時に雑誌「フィギュア王」に書いたコラムである。
 基本的に僕の感想は、この当時と変わっていない。
 僕の「昭和時代の宇宙開発趣味」から短絡的に、万博や過去の世界を取り上げたから「オトナ帝国」を評価している、と思っている人もいるようだ。
 とんでもない。僕が感動したのは「過去より未来を選ぶ、というテーマに見せかけて裏テーマを語ったスタッフの力技」である。
 では再録、スタート。
 
 
 

 『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を語りたいと思う。
 もう公開は終わってしまった映画なので、内容のネタバレ描写もある。何よりも未見の人がほとんどだと思うけど、とにかくこの映画のことが語りたいので、つきあって欲しい。

 まずストレートに感想を言うと、脱帽、いや土下座だ。感動したなんてもんじゃない。
 大人向けの作品で「凄い」のなんて、あんがい簡単にできる。映画のスピード感や物語の面白さを放棄さえしてしまえば、「凄い」「深い」映画なんて簡単にできるのだ。
 
 でも、今回のクレしんはいつもと同じ「子供も大人も楽しめるファミリー・ムービー」という形式を守りつつ、あの高みまで登り切った。
 僕がここで土下座と書くのは、制作者たちがこの「ファミリー・ムービー」という形式を諦めたり言い訳に使ったりしなかった、ということ。
「まぁ子供向けアニメだから、ここは適当に」
「これ以上描こうとしたら『映画』という形式全体を疑わなければならない。だから描かない」
 こういう言い訳をしなかった。スタッフたち。偉いよ、凄いよ!
 
 マニアや濃いオタクたちに注目されず、サブカル好きなマスコミや海外の賞からも評価されず、ただひたすら「面白いファミリー・ムービー」を作り続けて、ついに到ったこの地平。
 ファミリー・ムービーだからこそ圧倒的なリアリティをもって描けた‥いやいや、抽象的な表現を重ねても意味はない。あくまで劇場版クレしんのごとく、「誰にでもわかる表現と具体例」につとめよう。

 埼玉県・春日部の街に作られた大テーマパーク「20世紀博」に、大人たちはハマりっぱなし。週末ごとに訪れては、怪獣ごっこや魔法少女ごっこのアトラクションに夢中。いつの間にか街全体もノスタルジックなものが流行りはじめる。
 と、ある朝突然、大人たちは全員、子供を放り出して20世紀博に行ってしまう。どうやら誰かに操られているらしい。
 大人達を連れ戻すため、悪者たちと戦いを始めるしんちゃんたちの運命はいかに!?

 ストーリーだけ聞くと、「ハーメルンの笛吹き」のバリエーション。いつもの劇場版クレしんっぽい話だ。
 しかし驚くほど緻密に映像化された、ノスタルジーな大道具や小道具たち。
 ファーストシーンの「1970年の大阪万博会場に立つしんちゃんとみさえ」や、悪の秘密結社イエスタディ・ワンスモアが春日部地下に建造した「永遠の夕焼けを生きる街」など、とにかく圧倒的な情報量で、観客をその世界に引き込んでしまう。
 大人たちに取り残された子供たちの絶望と不安を、デパート屋上から遥か地平に見える花火で表現したり、ラジオから流れる「知らない曲」としてザ・ピーナッツの名曲「聖なる泉(『モスラ対ゴジラ』挿入歌)」を使ったり、という「セリフに頼らず映像のみで語る」映画手法は見事!の一言。

 さて、この映画で特筆すべきは、テーマが明確になるクライマックス部分。しんのすけの活躍で、父・ひろしが記憶を取り戻すシーンである。
 この映画を見た観客の、かなり多くがテーマを誤解していると思う。つまり「ノスタルジーは楽しいけど、それだけでは何も生まれない。これからという未来に向かって生きているからこそ素晴らしいのだ」という表面上のテーマを信じてしまうわけだ。
 まさか。
 これだけの映画を作れる連中が、そんな凡庸なテーマで納得しているはずがない。
 
 夕焼け迫る大阪万博会場、太陽の塔の前。ひろしは幼い姿、しんのすけと同年代の子供として登場する。
「月の石をみたい!」「あんなただの石、見るために3時間も並べない」「ただの石じゃないもん!アポロが月からとってきた月の石だもん!」
 泣きじゃくるひろしの後ろに、いつのまにかしんのすけが立っている。
「父ちゃん、迎えに来たよ。お家に帰ろう」
 抑えたセリフが逆に緊張感を盛り上げる。しかしひろしはしんのすけを、「大人になった自分」を認めようとはしない。
 
 靴下の匂いというギャグを交えた仕掛け。幼い頃のひろしから始まって、セリフいっさいなし・モンタージュのみの奇跡の長尺回想シーンの末、ひろしは目を覚ます。
 
 このシーンの構図で、真のテーマは明確になる。
 
 記憶を取り戻した直後、ひろしは地面に倒れたまま、赤子のように泣きじゃくっている。膝を丸めたその姿は、まるで母胎の中へ帰りたがっているようだ。
 奇妙ではないか。なぜ「目覚めた」はずのひろしは胎児のようなポーズで泣いているのか。
 大切な家族のことをすっかり忘れていたのを、悔いているわけではない。
 自分の家族の大切さを思い出して、愛しくなったからでもない。
 もしそうなら、目の前にいるしんのすけを「大人のように」抱きしめるはずだ。ひろしが父に戻ることによって、やっとしんのすけも子供になって、あの「家族」といういつもの形に帰ることができる。
 もし「ノスタルジーを乗り越えて、明日の世界を家族と生きる」がテーマならば、あの場面で、ひろしは立ち上がってしんのすけを「大人として」抱きしめなければならない。
 
 それが大人だから。
 一度は捨て去った自分の子供を、再び抱きしめるにはいま一度「大人」になるしかないのだから。

 しかし、ひろしが泣いているのは、ふたたび大人に戻れた喜びからではない。彼が泣きじゃくっているのは「失った」からだ。
 いつのまにか「失った」ことさえ忘れていた「あの時」を、秘密結社の洗脳で取り戻し、そして再び「失う」ことを強要される。
 それも、今度は意識しながら「捨てなければいけなくなった」から、ひろしは泣いたのだ。

 もちろん、今までの自分は肯定している。家族を守ってきたことを誇りに思う。家族を何よりも大切に思っているだろう。
 それはラスト近くの、悪の首領・ケンに対するセリフでも説明されている。
 
 それでも、二度とあの頃の自分に帰れない。
 ひろしの葛藤は、家族でオート三輪に乗って逃げるシーンで頂点に達する。
 運転席はひろし一人。荷台には妻のみさえと子供二人が乗っている。家族の運命がひろしの運転にかかっているのだ。
 永遠の夕焼けに染まる街を爆走するひろし。その目に、いつの間にか涙が浮かぶ。
「ちくしょう、なんでこの町はこんなになつかしいんだ!なつかしくて、気が狂いそうだ!」

 気が狂ったら、何をするのか。
 家族を捨てて、町に戻るのだ。
 「あの頃」に戻るのだ。
 悪の秘密結社の洗脳ではなく、自分自身の意志として。
 家族なんか捨て去りたい。
 純粋な頃の自分に戻りたい。
 
 いきなり停車するオート三輪。みさえは「どうしたの、あなた?」と問いかける。ほんの一瞬、ほとんどの観客が見逃す間があって、ひろしは運転席から飛び出し、町を歩いている警官をつかまえて「町の出口はどこだ!?」と怒鳴る。
 
 この一瞬の間こそ、ひろしの「観客に見えざる葛藤」だ。
 この映画のテーマは「家族の素晴らしさ」「現在の素晴らしさ」ではない。
 
 ひろしは、そしてみさえや他の大人たちも、その素晴らしくあるべき「家族」や「現在」に疲れはてていた。
 だからこそ、過去の世界に癒しを見いだしたのではないか。
 なぜ自分の子供たちを放り出してまで、20世紀博にハマったのか。
 それはひろしやみさえが「家族」という組織に疲れ果てていたからではないのか?

 テーマを「家族の素晴らしさ」にするなら、シナリオの常套手段はまず、そのテーマの否定からはじまるはずだ。「家族は苦痛である」というアンチテーゼを充分に描き、それをクライマックスで反転させてこそ娯楽作品のテーマたりうる。

 「あの頃へ帰りたい」というノスタルジーに囚われたひろしは、「大阪万博の部屋」で書き割りのセットに囲まれて、嘘の世界・虚構の世界を夢見ていた。
 しかし、その虚構を捨て去ったひろしは、何を頼りに生きていけばいいのか。息子の前で泣きじゃくるほどの喪失感を味わい、そのかわりに彼が得たものは、虚構の世界ではなく、どんな「本物」だったのだろうか。
 
 「クレヨンしんちゃん」は、「サザエさん」の現代版として受け入れられている家族アニメである。三世帯が仲良く暮らし、ローンも家庭内暴力もない理想郷として描かれる「サザエさん」の世界に視聴者は飽きたらず、ある意味過激な「クレしん」を受け入れた。
 しかし、その「クレしん」でさえ、その疑いもなく最高傑作の『モーレツオトナ帝国の逆襲』でさえ、私たちに「本物」は提示できない。
 
 「家族の絆」「濃厚な人間関係」を厭い嫌って、私たちはここまで来た。
 一族郎党が固まって暮らし、本家の家長に気を使いながら生きる、という人生は過去の遺物だ。
 祖父や叔父などと一緒に暮らす「大家族」も、都会から失われて久しい。
 我々はいまや「核家族」を通り過ぎて、家族で食事すら共にしない「個食」の時代を生きている。
 「サザエさん」や「クレヨンしんちゃん」の描く「温かい家族」というものはすでに「懐かしい虚像」だと、我々は知ってしまっている。
 猟奇的な殺人事件や続発する監禁事件もまた、「家族」という温床で育て上げられる、と知ってしまっているのだ。

 しんのすけ以下、野原一家は映画のラストで「温かい家庭」を取り戻す。観客も、まるで我が事のようにほっとする。
 しかし映画館を出て、観客ではなくなった我々にとって、「温かい家庭」もまた「帰りたいけど帰れない」世界だ。
 大阪万博の部屋のように。
 夕焼けに染まる懐かしの商店街のように。
 

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