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2006年10月 1日 (日)

「オトナ帝国の逆襲」について

 映画「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」がオンエアされた。以下の文章は数年前の公開時に雑誌「フィギュア王」に書いたコラムである。
 基本的に僕の感想は、この当時と変わっていない。
 僕の「昭和時代の宇宙開発趣味」から短絡的に、万博や過去の世界を取り上げたから「オトナ帝国」を評価している、と思っている人もいるようだ。
 とんでもない。僕が感動したのは「過去より未来を選ぶ、というテーマに見せかけて裏テーマを語ったスタッフの力技」である。
 では再録、スタート。
 
 
 

 『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を語りたいと思う。
 もう公開は終わってしまった映画なので、内容のネタバレ描写もある。何よりも未見の人がほとんどだと思うけど、とにかくこの映画のことが語りたいので、つきあって欲しい。

 まずストレートに感想を言うと、脱帽、いや土下座だ。感動したなんてもんじゃない。
 大人向けの作品で「凄い」のなんて、あんがい簡単にできる。映画のスピード感や物語の面白さを放棄さえしてしまえば、「凄い」「深い」映画なんて簡単にできるのだ。
 
 でも、今回のクレしんはいつもと同じ「子供も大人も楽しめるファミリー・ムービー」という形式を守りつつ、あの高みまで登り切った。
 僕がここで土下座と書くのは、制作者たちがこの「ファミリー・ムービー」という形式を諦めたり言い訳に使ったりしなかった、ということ。
「まぁ子供向けアニメだから、ここは適当に」
「これ以上描こうとしたら『映画』という形式全体を疑わなければならない。だから描かない」
 こういう言い訳をしなかった。スタッフたち。偉いよ、凄いよ!
 
 マニアや濃いオタクたちに注目されず、サブカル好きなマスコミや海外の賞からも評価されず、ただひたすら「面白いファミリー・ムービー」を作り続けて、ついに到ったこの地平。
 ファミリー・ムービーだからこそ圧倒的なリアリティをもって描けた‥いやいや、抽象的な表現を重ねても意味はない。あくまで劇場版クレしんのごとく、「誰にでもわかる表現と具体例」につとめよう。

 埼玉県・春日部の街に作られた大テーマパーク「20世紀博」に、大人たちはハマりっぱなし。週末ごとに訪れては、怪獣ごっこや魔法少女ごっこのアトラクションに夢中。いつの間にか街全体もノスタルジックなものが流行りはじめる。
 と、ある朝突然、大人たちは全員、子供を放り出して20世紀博に行ってしまう。どうやら誰かに操られているらしい。
 大人達を連れ戻すため、悪者たちと戦いを始めるしんちゃんたちの運命はいかに!?

 ストーリーだけ聞くと、「ハーメルンの笛吹き」のバリエーション。いつもの劇場版クレしんっぽい話だ。
 しかし驚くほど緻密に映像化された、ノスタルジーな大道具や小道具たち。
 ファーストシーンの「1970年の大阪万博会場に立つしんちゃんとみさえ」や、悪の秘密結社イエスタディ・ワンスモアが春日部地下に建造した「永遠の夕焼けを生きる街」など、とにかく圧倒的な情報量で、観客をその世界に引き込んでしまう。
 大人たちに取り残された子供たちの絶望と不安を、デパート屋上から遥か地平に見える花火で表現したり、ラジオから流れる「知らない曲」としてザ・ピーナッツの名曲「聖なる泉(『モスラ対ゴジラ』挿入歌)」を使ったり、という「セリフに頼らず映像のみで語る」映画手法は見事!の一言。

 さて、この映画で特筆すべきは、テーマが明確になるクライマックス部分。しんのすけの活躍で、父・ひろしが記憶を取り戻すシーンである。
 この映画を見た観客の、かなり多くがテーマを誤解していると思う。つまり「ノスタルジーは楽しいけど、それだけでは何も生まれない。これからという未来に向かって生きているからこそ素晴らしいのだ」という表面上のテーマを信じてしまうわけだ。
 まさか。
 これだけの映画を作れる連中が、そんな凡庸なテーマで納得しているはずがない。
 
 夕焼け迫る大阪万博会場、太陽の塔の前。ひろしは幼い姿、しんのすけと同年代の子供として登場する。
「月の石をみたい!」「あんなただの石、見るために3時間も並べない」「ただの石じゃないもん!アポロが月からとってきた月の石だもん!」
 泣きじゃくるひろしの後ろに、いつのまにかしんのすけが立っている。
「父ちゃん、迎えに来たよ。お家に帰ろう」
 抑えたセリフが逆に緊張感を盛り上げる。しかしひろしはしんのすけを、「大人になった自分」を認めようとはしない。
 
 靴下の匂いというギャグを交えた仕掛け。幼い頃のひろしから始まって、セリフいっさいなし・モンタージュのみの奇跡の長尺回想シーンの末、ひろしは目を覚ます。
 
 このシーンの構図で、真のテーマは明確になる。
 
 記憶を取り戻した直後、ひろしは地面に倒れたまま、赤子のように泣きじゃくっている。膝を丸めたその姿は、まるで母胎の中へ帰りたがっているようだ。
 奇妙ではないか。なぜ「目覚めた」はずのひろしは胎児のようなポーズで泣いているのか。
 大切な家族のことをすっかり忘れていたのを、悔いているわけではない。
 自分の家族の大切さを思い出して、愛しくなったからでもない。
 もしそうなら、目の前にいるしんのすけを「大人のように」抱きしめるはずだ。ひろしが父に戻ることによって、やっとしんのすけも子供になって、あの「家族」といういつもの形に帰ることができる。
 もし「ノスタルジーを乗り越えて、明日の世界を家族と生きる」がテーマならば、あの場面で、ひろしは立ち上がってしんのすけを「大人として」抱きしめなければならない。
 
 それが大人だから。
 一度は捨て去った自分の子供を、再び抱きしめるにはいま一度「大人」になるしかないのだから。

 しかし、ひろしが泣いているのは、ふたたび大人に戻れた喜びからではない。彼が泣きじゃくっているのは「失った」からだ。
 いつのまにか「失った」ことさえ忘れていた「あの時」を、秘密結社の洗脳で取り戻し、そして再び「失う」ことを強要される。
 それも、今度は意識しながら「捨てなければいけなくなった」から、ひろしは泣いたのだ。

 もちろん、今までの自分は肯定している。家族を守ってきたことを誇りに思う。家族を何よりも大切に思っているだろう。
 それはラスト近くの、悪の首領・ケンに対するセリフでも説明されている。
 
 それでも、二度とあの頃の自分に帰れない。
 ひろしの葛藤は、家族でオート三輪に乗って逃げるシーンで頂点に達する。
 運転席はひろし一人。荷台には妻のみさえと子供二人が乗っている。家族の運命がひろしの運転にかかっているのだ。
 永遠の夕焼けに染まる街を爆走するひろし。その目に、いつの間にか涙が浮かぶ。
「ちくしょう、なんでこの町はこんなになつかしいんだ!なつかしくて、気が狂いそうだ!」

 気が狂ったら、何をするのか。
 家族を捨てて、町に戻るのだ。
 「あの頃」に戻るのだ。
 悪の秘密結社の洗脳ではなく、自分自身の意志として。
 家族なんか捨て去りたい。
 純粋な頃の自分に戻りたい。
 
 いきなり停車するオート三輪。みさえは「どうしたの、あなた?」と問いかける。ほんの一瞬、ほとんどの観客が見逃す間があって、ひろしは運転席から飛び出し、町を歩いている警官をつかまえて「町の出口はどこだ!?」と怒鳴る。
 
 この一瞬の間こそ、ひろしの「観客に見えざる葛藤」だ。
 この映画のテーマは「家族の素晴らしさ」「現在の素晴らしさ」ではない。
 
 ひろしは、そしてみさえや他の大人たちも、その素晴らしくあるべき「家族」や「現在」に疲れはてていた。
 だからこそ、過去の世界に癒しを見いだしたのではないか。
 なぜ自分の子供たちを放り出してまで、20世紀博にハマったのか。
 それはひろしやみさえが「家族」という組織に疲れ果てていたからではないのか?

 テーマを「家族の素晴らしさ」にするなら、シナリオの常套手段はまず、そのテーマの否定からはじまるはずだ。「家族は苦痛である」というアンチテーゼを充分に描き、それをクライマックスで反転させてこそ娯楽作品のテーマたりうる。

 「あの頃へ帰りたい」というノスタルジーに囚われたひろしは、「大阪万博の部屋」で書き割りのセットに囲まれて、嘘の世界・虚構の世界を夢見ていた。
 しかし、その虚構を捨て去ったひろしは、何を頼りに生きていけばいいのか。息子の前で泣きじゃくるほどの喪失感を味わい、そのかわりに彼が得たものは、虚構の世界ではなく、どんな「本物」だったのだろうか。
 
 「クレヨンしんちゃん」は、「サザエさん」の現代版として受け入れられている家族アニメである。三世帯が仲良く暮らし、ローンも家庭内暴力もない理想郷として描かれる「サザエさん」の世界に視聴者は飽きたらず、ある意味過激な「クレしん」を受け入れた。
 しかし、その「クレしん」でさえ、その疑いもなく最高傑作の『モーレツオトナ帝国の逆襲』でさえ、私たちに「本物」は提示できない。
 
 「家族の絆」「濃厚な人間関係」を厭い嫌って、私たちはここまで来た。
 一族郎党が固まって暮らし、本家の家長に気を使いながら生きる、という人生は過去の遺物だ。
 祖父や叔父などと一緒に暮らす「大家族」も、都会から失われて久しい。
 我々はいまや「核家族」を通り過ぎて、家族で食事すら共にしない「個食」の時代を生きている。
 「サザエさん」や「クレヨンしんちゃん」の描く「温かい家族」というものはすでに「懐かしい虚像」だと、我々は知ってしまっている。
 猟奇的な殺人事件や続発する監禁事件もまた、「家族」という温床で育て上げられる、と知ってしまっているのだ。

 しんのすけ以下、野原一家は映画のラストで「温かい家庭」を取り戻す。観客も、まるで我が事のようにほっとする。
 しかし映画館を出て、観客ではなくなった我々にとって、「温かい家庭」もまた「帰りたいけど帰れない」世界だ。
 大阪万博の部屋のように。
 夕焼けに染まる懐かしの商店街のように。
 

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コメント

くれよんしんちゃんに、現代の家族像を投影し、病んでいる部分にまで表現えお掘り下げたことが、色んなテレビのコメンテーターよりも説得力があることを知りました
大人になれない子供のような親たち
子育てや家事に疲れた親たち
自分たちが子育てを通して、親として成長で出来ない親たち
個食の時代には、子育ても躾も学校任せ、塾任せ
濃密な人間関係を築けない親が育てる子供は、どうなるだろうか
意外にも子供達は、親を反面教師にして、たくましく育つかもしれないが、多くの子供は引きこもりや、不登校の因子(濃厚な人間関係を築けない)を親たちから受け継ぐに違いないし、多くの子供は素直であるから、どこかで親の背中を見て育つと思うのです
しんちゃんみたいに、独り立ちできる子とそうではない子の格差が広がることは個食の時代には止むを得ないと思います

投稿: 竹本 | 2006年10月 1日 (日) 22時02分

心地よい過去をも捨てて選んだものは何か。
子です。
ひろしにとって、
しんのすけ、ひまわり、みさえのいない
世界(すなわち過去)には何の価値もありません。
その証拠にアッパレ!戦国大合戦で
「しんのすけのいない世界に未練なんてあるか!」
と言い切っているのです。
過去を断ち切るのは確かにひろしにとって
苦痛だったかもしれませんが、
それでもしんのすけ達を捨てるくらいなら、
と過去を捨てたのです。
そういった家族への思いと、作品外の現実とを比べると、
確かにやりきれないものがあるのですが、
「どうだ、野原家はハッピーエンドだ、
うらやましいだろう」
という単なるいやがらせのために
幸福なシーンで締めくくったとは思えないのです。

投稿: fi | 2006年10月 2日 (月) 22時59分

 私が一番印象に残ったのが、ヒロシが胎児のように体を丸めて泣きじゃくるシーン。とてもリアルだった。あの頃の自分をいつ忘れてしまったんだろう。どこへ置いてきてしまったんだろう。戻りたい。戻りたいけど、戻れない。
 でも、もしかしたら、戻れるかもしれないのです。大切なものを手放すことによって。それをしてもいいのか、自分にできるのか。その葛藤をヒロシの姿に見たように私は思いました。
 オート三輪の荷台で、よもや自分達が捨てられるかもしれないとは、みさえは夢にも思っていなかっただろうなとも。

 余談ですが、私自身の大阪万博の思い出は、なぜか太陽の塔の目のあたりに男の人がいたのと、(いたよね?)弟がウォータースライダーの水路に落ちて係員に怒られたことぐらいです。小さかったしね。
 

投稿: みうみう | 2006年10月22日 (日) 22時36分

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