落語についてアレコレ考える
11月17日の日記の続き
唐沢さんの言う「枷から解放されて」という部分、僕はずっとこう考えてきた。
落語の持っている枷、それは僕にいわせれば、たとえば「バカバカしい話」「寓話」という逃げだ。
別にバカバカしいだけである必要はない。落語は丁稚の社会勉強にも使われた歴史だってある。ウソくさい月曜9時のドラマだって「最新のファッションや風俗」を学ぶ場所になり得る。
たとえ落語であっても、「へぇ~」「勉強になったなぁ」というトリビアや豆知識を仕入れて面白がる、そういう「面白さ」があってもいいのではないか?
徒弟制度という枷。たしかに徒弟制度でしか守れない文化も有る。しかし、メリットだけの制度があるはずもない。
いままで落語は徒弟制度のメリットこそ語りつくされてきたけど、そのデメリットはすくなくとも公けには議論されていない。
書店や古書店をまわり、読めるだけの落語論や書籍を見たが、「消極的には疑問がない事もない」以上の表現には出会った事がない。まるで徒弟制度の是非を論じること事態がタブーのように、だ。
「いや、落語にも天狗連というアマチュア参加システムがある」という反論もあるだろう。しかし「面白いアマチュア」と「面白くないプロ」という存在をどう説明するのか。「天狗連」という線引きそのものが無意味な区別の証明ではないのか。
落語家には二つある。「面白い落語家」と「面白くない落語家」だ。そして、それぞれにプロもいればアマチュアもいる。それだけの分類で充分ではないのか。
落語家、という枠。いったい落語家とピン芸人はどこが違うというのか?
落語家がフリートークをやっても、ピン芸人とは呼ばれない。ピン芸人が落語をやっても落語家にはなれない。
ピン芸人やお笑いタレントには誰でもなれるけど、落語家は許認可制だ。
おそらく、落語というのは芸の種別や職種ではなく、制度そのものの形なのだ。
落語ファン、という枷。かつて桂米朝は名著「私と落語」の中でこう語っている。
「落語は古典芸能化しつつある。しかし演者の立場としてはできるだけ大衆芸能でありつづけたい」
「大衆芸能の定義とは『舞台の演者と客席のファッションが同じ』である、ということだ。かつて和服に手ぬぐい、扇子というのは大衆のファッションそのものだった。その時代、落語は大衆芸能だった」
「現代でもフォークミュージックのコンサートに行けば、演者はTシャツにジーンズで、そのまま壇上を降りて観客と入れ替わってもなんの違和感もない。それが大衆芸能だ」
「落語家が背広にライターと万年筆をもって立ったまましゃべってもちゃんと落語は出来る。しかし、それをお客様が『落語だ』と認めてくれない。落語は古典芸能であってほしい、と要求する声もたしかにあるからだ」
いまから30年以上前、すでに米朝はこのように悩んでいた。なによりも落語ファン自体が、落語が大衆芸能になることを望んでいない、という厳しい現実に直面していた。
誤解してほしくないけど、僕は「古典芸能としての落語」を否定しているわけではない。「大衆芸能とはどういうことか?」を考えつづけチャレンジする現代の落語家に拒否反応しかしめさない「1.0世代の落語ファン」を批判しているのである。
ああ、いかん。この調子で何時間でも語れてしまう。
まだ未完成の考え方なので、今日はこの辺で終わる。
いま、僕が考えているのは、以上のような「新しい落語と落語家の定義」だ。
僕はそれを「落語2.0」と呼んでいる。
2.0世代の落語とは、米朝が抜け出そうとした「和服と座布団」を逆に採り入れて、逆にそれだけをレギュレーションとした、新しい話芸の形だ。
和服を着て座布団に座りさえずれば、あとは面白い話をするだけでいい。
面白さの定義は演者と観客の関係性だけでかまわない。
それが「落語2.0」だ。
・・・とまぁ、「岡田斗司夫として落語2.0を語る」のは、ずいぶんこなれてきた。
問題は「吉祥亭満月」くんですよ。コイツがちゃんと2.0落語をできないとシャレにならない。岡田斗司夫が「勉強会、大丈夫?ちゃんとネタは用意してるの?」と聞いても「う~ん、たぶんなんとか・・・」と答えるだけ。どっちかというと理屈っぽい岡田斗司夫に比べて、吉祥亭満月は僕の内部の「直感的で気分屋でいい加減」な部分でできあがってるので、かなり不安だなぁ。
(追記)
落語2.0に関してエールをいただいたので、リンクします。
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