落語2.0宣言
注: ものすごく長いです!携帯で読む人は注意!
あと、昨日の日記の続きなので、できれば「僕が落語にこだわる理由(未整理版)」を先に読んでいただけるとありがたいです。
勉強会も近くなってきたので、また最近落語のことばかり考えている。
まずデビュー戦の分析から見えてきた事。
客席の反応はまぁまぁ、というより新人の初舞台にしてはやけにウケていた。しかしそれとは別に、アンケートや感想のメールで、人数こそ少ないながらかなり否定的な意見をもった人もいたことがわかった。
僕が不思議だったことは「ウケたのに、否定された」こと。
完全にスベったのなら理解できる。
「マイナーとはいえテレビにでも出てるような、まぁちょいと有名人さんが落語に挑戦ですか。おやおや、全然面白くないですね」
こういう評価なら、僕にとって哀しいだろうけど納得できないことはない。
しかし、僕の高座を否定した人たちは、きまって同じ言葉を投げつけた。
「あれは落語ではない」
「なまじ面白いから腹が立った」
「面白くなければ許せるけど、なんだか落語をバカにされた気がする」
「落語をちゃんと勉強して出直せ」
面白いけど、落語じゃない?
ふぅむ、興味深い。
おそらく彼らにとって落語というのは「落語であるかどうか」が「面白いこと」よりも重要みたいだ。そしてなんと「勉強する」対象のようだ。
こういう思考法のことを「教条主義」と言う。現代の落語ファンというのは、かつての粋人というよりも、かなり優等生的というか真面目な人が多いんだなぁ、と思った。
また、このようなことを言った人もいた。
「前座には、面白くなくてもいいから、ちゃんと落語協会とかに属してる人を出してください」
「イケメンの二つ目さんとかが見たかった」
「せっかく渋谷に来たんだから、オタクなんか見たくない」
三つ目の意見には、不覚にも笑ってしまった。いや、イケメンでないオタク野郎で申し訳ない。
ここでもやはり「面白さ」よりも他の要素が優先されている。
「ちゃんと落語協会とか(おそらく芸術協会とか立川一門とかのこと)に属している」「イケメン」「オシャレなものを見にきているはず、という幻想」
以上の三要素のほうが、「面白さ」より大事!と言いたいらしい。
次に、肯定でも否定でもない人の意見。
「もっと落語っぽく話せばいいのに」
「ちゃんと上下をつけて演技して、落語にすればいいのに、と思いました」
「落語と名乗らなければ楽しめたかも」
これらの人に共通しているのは、「落語とはこういうものだ」という定義がはっきりしていること。そして「その範囲内なら認められるけど」と考えているらしいこと。
たぶんこういう人たちは「これは落語」「これは漫談」「これは講談」とはっきり区分けして考えているんだろう。その中間やまったく別の座標軸の作品を見せられても混乱するだけなのかもしれない。
困ったなぁ。
粋人であるはずの落語ファンは、どこにいってしまったんだろう?
こういうことを考えるのが僕にとって「落語を勉強する」ということなんだけど、たぶんそれは彼らの言う「もっと落語を勉強しろ」という意味とは、かなりかけ離れているんだろうね。
僕の当惑を説明するために、別ジャンルの大衆演芸を例に話を進めよう。
たとえばマンガ。
マンガだって初期の頃は「これはマンガじゃない」という区分けや教条主義が横行していた。誰あろう手塚治虫自身が「あんなのマンガじゃない。社会風刺もないし、ヒトコマで世情を切り取っていない」とヒトコマ漫画家たちから厳しく批判された。
しかし、現在のマンガの興隆はそういう古臭い偏見を乗り越えたからだ。
もし今、マンガ雑誌に「いまの主流マンガとは違う技法」のマンガが掲載されたとする。
それが面白くさえあれば、誰も「これはマンガではない」とは言わない。「へぇ、こんなマンガもアリなのか」と感心するだけだ。「マンガ雑誌を買ったのに、こんなのはマンガではない。たしかに面白いけど」と怒る人など想像もできない。
そして、これこそがマンガが大衆芸能として優れている部分なのだ。
夏目房之介氏はマンガ夜話の中で何度も「日本のマンガが優れている理由は、優秀な読者の育成に成功したから」と繰り返し語っている。「これはマンガじゃないからダメだ」と否定しない知的でバランスの取れた客層がきわめて大量に存在する。そういう受け手を信頼できるからこそ、送り手側も新しいチャレンジが次々とできる。
面白ければ、なんでもやっていい。面白い、という最低ラインさえ保障すれば、どんなものでも受け入れてもらえる。
その「面白さ」も一様である必要はない。
かつての漫画=滑稽な読み物という偏見から自由になった近代マンガは、ありとあらゆる「面白さ」を開拓した。
「人情」「ウンチク」「料理レシピ」「格闘」「動物観察」「ワイン」「オシャレ」「推理」「歴史」・・・
マンガの「面白さ」というのは「読んで笑える」だけではない。「興味深い」「知的だ」「反社会的でゾクゾクする」「イヤな気持ちになるけど、なぜか目が離せない」「設定や人物関係が複雑だ」
とてもこんな言葉だけでは語りつくせないのが「マンガの面白さ」の世界だ。
「これはマンガじゃない」と否定せず、ただひたすら「面白さ」の可能性を拡げ続けて、マンガは世界的なコンテンツへと成長した。
今の真面目な落語ファンが考えている「よい落語ファン像」というのは、間違っていると思う。
落語をちゃんと勉強してるとか。
いろんな落語界にこまめに通ってるとか。
落語家さんの本やCDをちゃんと買ってるとか。
前座や二つ目の頃から、見守って応援してるとか。
そんなことは、どうでもいいんじゃないかな。
面白い噺は「面白い」。つまらない噺は「つまらない」。
それだけで、評価すればいいのに。
面白くないけど、名跡だから応援する。
伝統ある寄席で「気分だけ満喫」する。
寄席に行くことが落語を勉強することだと信じる。
落語家を「上手い」とか「芸がある」と評価する。
そういう行為に疑問を持たないから、落語も落語家もダメになり続けていることに気づいていない。
マンガを「上手い」とか「才能がある」なんて評価するのは評論家だけだ。読者の役割は「面白い!」と言うこと。面白ければ応援して、面白くなくなった瞬間にそっぽを向くこと。それだけが表現者を向上させるんだから。
古典落語は人情があって、新作落語は爆笑できる。
そんな区分けが落語を狭く息苦しくしている。
「面白く」さえありさえすれば、人情も爆笑もべつに必要ではない。
知識が増える喜びだって、知らない外国の情報だって、芸能人のゴシップだって、それが「面白く」さえ感じられればそれでいいじゃないか。
え、そんなのは落語じゃない?そういうのがしたければ漫談でやれ?
「落語」と名乗るな?
とんでもない。
落語とはそもそも「噺」という。
「噺」という漢字は口偏に新しい、と書く。
新しいことを語るのが「噺」だ。新しい面白さを語るのが「噺家」だ。
世阿弥は『風姿花伝』で芸能の本質を花にたとえて「おもしろきこと」「めづらしきこと」と喝破している。
今までになくて、新しくて、面白い。
古来より、大衆芸能の本質とはこれなのだ。
優等生的な落語ファンは、「いい落語家」の定義をこう考えている。
●「ちゃんと落語を勉強していること」
●「歴史ある一門に属して、それなりの派閥・協会に入っていること」
●「江戸文化などの伝統芸を継承していること」
●「とにかく笑えること」
以上の定義の落語を、僕は「1.0世代の落語」と呼ぶ。
僕が目指しているのは「落語2.0」だ。
2.0世代の落語および落語家は、上の定義から自由である。
○今までの落語を勉強する必要はない。もしオリジナルのネタがないとか自信がない場合は古典をやってもかまわないけど。
○既存の落語家集団に属さなくてもかまわない。徒弟制度はもちろんメリットも多いけどデメリットだってある。2.0落語では、そのメリット面をさほど重視していない。
○伝統芸は気にしなくていい。それより「面白い」を優先する。面白くない奴は、せめて芸でも磨いたほうがいいだろう。
○笑える必要すらない。「面白さ」とは「笑い」だけではないから。「新作落語は笑える」という縛りがいかに若手落語家の手を縮ませているか。落語2.0はあの落し穴に落ちてはならない。
たったひとつ、2.0落語の守るべきルールは「和服で座布団に座って話す」ということだけ。これだけで「2.0落語」になる。
その意味で2.0落語家は本当の落語家である必要すらない。
メイド喫茶とおんなじだ。
メイド喫茶のメイドさんを「本当のメイドじゃない」と怒る人はいない。
家に帰ったら親に「ざけんな!」とか怒鳴っている悪い子でも、メイド服着てにっこり「ご主人様」と微笑めば、我々は「あ、メイドさんだ。萌え~」と認めてあげる。
そこで問われるのは氏素性ではなく、彼女のキャラであるとか魅力であるとか、「メイド喫茶内での魅力」に限られる。
こういう遊び方を古来、「粋」っていうんだよね。本当は。
メイド喫茶のメイドさんは「メイド服が似合う」とか、そういう魅力だけで評価される。
メイドの歴史とか背景とか言い出すのは、無粋な評論家に任せればいい。
2.0落語も、落語家は「落語家のコスプレ」でかまわないし、落語は面白ければそれでかまわない。
でもコスプレだからこそ、メイド喫茶だからこそ、ちゃんとマジメにメイド服は着なくちゃいけない。そこを外すと「粋」ではなくなる。それは単に「無粋」って呼ばれる。
和服を着て、座布団に座って、あとは「面白い噺」をするだけ。
自分だけにしか話せない話。新しくて珍しくて面白い話。
みんなが聞いたことがないような話。
それが「落語2.0」だ。
なので今後、また真面目な落語ファンから怒られたら「すいません、僕、2.0ですから」と謝ることにしよう。
目指すべきは、いまのマンガファンのような客層。
マンガを読むときのように、面白さを偏見なく認めてくれるような人たち。
「ちゃんとした落語家じゃないから」「オタクだから」「落語になってないから」と僕を差別しない人たち。
そういう、マンガ夜話を面白がってくれるようなお客さんがきてくれたら、うれしいなぁ。
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